エピソード1
善意の攻撃は一番たちが悪い。悪かったと反省をするどころか、本人的には良いことをしているつもりでいるんだから、本当にたちが悪い。以前、友人で「今の髪型よりも、こうしたほうがいい」「洋服はこういう方が似合う」「こんなメイクにした方が絶対にいい」と会うたび会うたび必ず言ってくる人がいた。
本人としては、「私をもっとよくしてあげたい」的な善意のアドバイスなんだろうけれど、相談もしていないのに、会うたび毎回毎回ダメ出し&アドバイスをされることに、正直参ってた。
そして私はくるくるの頭にふりふりの服にきらきらなメイクが好きなワケではなく、その人の「かわいい」の価値観をそのまま当てはめられても相交われないと思った。価値観が違うのだ。
「毎回そんなコト言われちゃうと、そんなにアタシってダメ?!って思っちゃうよ」と遠回しに言ったとき、「今でも全然いいと思うんだけど、絶対もっとかわいくなれるよ!」ってキラキラした目で言われたのがすごく印象的だった。(けどやでもが付く文章って、その前は言っても言わなくてもいいくらいの軽さで、全然そう思ってないんだよねw)
あぁ、伝わることないなって思った。そして善意ってなかなか否定しにくいもので、ジワジワ効いてじわじわしんどかったなぁ。
エピソード2
私が学生時代、友人が事故で亡くなった。それからしばらくして、「臓器提供の意思表示カードを持とうと思う」って話を母親とした。母親は、「やめてほしい。もしもあなたが先に逝くようなことがあったとしたら、それだけでもたまらなく悲しいのに、死んでまで体を刻まれるようなこと、耐えられない」と言った。
私は、なるほどなって思った。誰かの中で一部でも生きてるって思えたり、最後誰かの助けになることで、自分にも価値が少しはあるような気がしてただけに、なるほどそっか。親心って複雑で大変で壮大だなって思った。
だから、「いや、私はやっぱり誰かの役に立ちたいんだ!」って言えなかった。思いを尊重した。なので私は今後も親が健在である限り、もし死んだときに使える内臓があっても提供しないだろう。
エピソード3
選挙の度に、「一票の格差」とかって言われるのに、この世の中には、「○○党に入れるなんて信じられない」とかって平気で言っちゃう人とかいて、案外ぎょっとしてびっくりしちゃう。自分の一票はそんなに特別で、他の人の意志っておバカで愚かだとでも思ってるんだろうかと。
それが選挙であれば、まぁ結果はそんな言葉は何の効力も発揮しないのでいいんだけど、そう言っちゃうのが選挙ではなく「仕事」だったりすること、そしてそう言っちゃうのが「上司」って立場だったりする場合って世の中往々にしてよくある話で、それが相手に対する威圧だとは気づいてもない。
そして
声の大きな人の思いが通るんだったらそりゃもう民主主義なんかじゃない。そして声の大きな人ってよく誤解してるなって思うんだけど、発さない人は何も考えてないわけじゃない。いろんな思いはちゃんと持ってるんだ。アタシも真面目な話題に対して、あまり大きな声で意見を言う方ではない。どこぞかの言葉を生業にしている人たちみたいに、思いを上手に言語化できないし、頑張っちゃてまで「伝えたい」って思わないし。
(伝えたいと思わないってコトに対しても、「いや、それは相手に伝えるべきだよ」とかって言っちゃう人も多いけどね。色々あきらめちゃいかんと。伝えることを放棄するのはあきらめであり怠慢であるとw)
「こうあるべきだ」
ってもの、世の中にはそんなにないんじゃないかなって思う。民主主義の国ですもの。人間ですもの。全員が同じ考えを持っているワケではない。
一辺倒に、何が正しいかって議論するよりも、「人は自分と違う考え方をもっていることもある」ってことを理解する方がずっと大切なんじゃないのかな。
一連の実名報道の是非についての中で、私もとても悲しくなった。声の大きな人が、声の小さな人の大きな思いや重い気持ちを、踏み潰して蹴散らして上に乗って正義感振りまいて代表者気取って代弁までしちゃってるのはたまらない。
そしてあんた知らんし誰だよ、勝手に代弁されても知らんし。。。みたいな。
自分以外の誰かを尊重する。ただそれだけのコトだけれどそんなに単純じゃないんですかね。。。とても大切なものが置き去りになっている気がしてならない。
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